実数論やフーリエ変換に関わる基礎数理のモチベーション・歴史的経緯

はじめに

次のツイートを受けて, 実数論やフーリエ解析に関わる歴史的な経緯や数学的なモチベーションの話をした.

発端

参考になる人もいるだろうから連続ツイートをまとめておく. 発端は次のツイート.

以下, 自分のツイートを中心に編集して転載. たりちぱさんのツイートは引用系にしておく.

本論

教科書を下手に改変したせいで、かえってわかりにくくなっている講義は、それによってわかりやすくなっている講義よりもきっと多いと思われる。それはそれとして、数学の教科書のわかりにくさは異常。あれはきっと数学科では異常者のみを選別するためにやっているのだと思う。

数学の教科書を書く人は、なんらかの定義を導入する際に、なんのためにその定義を導入する必要があるのかという動機を説明したら死ぬ病に罹っている。後の方まで学習が進めば自然とその定義を導入する意味が理解できるらしいのだが、その内容は絶対に教科書に書かれることがない。本当に意味わからん。

動機のような「夾雑物」を混ぜるとわからなくなるタイプが本当にいるらしいのと、前書きなり何なりに書いてある範囲で大丈夫タイプもいるようです。あと、こんな定理が成り立つような定義はとても嬉しいので、成り立つ定理を見れば動機は自明にわかる派もいる模様です。 他にもパッと見で(当人から見て)意味不明な近似などもなく「きちんと論理的に話が進んで嬉しい」派もいるようですし、気に入る点が根底から違うのはそうで、非数学関係者から見てそれが好きなのは異常者と認識されるのもそれはそうなのでしょう。本当に単純に向き不向きその一点で諸々決まる気分です.

おそらく「~のため」という概念自体が数学界にとっては夾雑物なんでしょうね。物理や生物に限らずすべての自然科学にとって教科書の記述はすべて「自然を理解するために」記述されているので、なんらかの動機が必ずあることが前提になっているし、それを知ってからのほうが学習しやすい。

多分大事なところなのであえて書くのですが、「(やっている当人にとって嬉しい数学に対する)数学のため」以外が各数学者にとって夾雑物っぽいです。数学科向けの本は数学科の学生が読むためのものなのでそれ以外を求めること自体が初めから間違いでしょう。物理の本がわからないと嘆く数学科学生的な.

私が知りたい数学の動機ってのは、「実数を理解するためにコーシー列を導入する」だとか、「フーリエ変換を厳密にするために関数の連続をちゃんと定義する」だとか、そういうレベルの話なので…

「そういう話ではない」のと「鶏が先か卵が先か」的なところもありつつピント外れのことを書くと, 実数の位相的側面 (完備性) の定式化としてコーシー列が必要なのは単に完備性の by definition だとか, フーリエ変換の厳密な定義を知るために普通の関数の連続性の議論していてもほとんど何もわからない (連続性のくびきを外したルベーグ積分または汎関数の空間の汎弱位相での連続性) とかなので, 問題意識の方向性が数学的に噛み合っていません. その動機で数学を見ていても確かに何もわからないし見えないという感じです.

勘所が噛み合っていないので微妙なのですが, 一応いくつか書いておきます. まずコーシー列は距離空間 (たぶん点列とその収束で位相が決められる空間まで一般化できる:一般の位相空間だと点列の一般化であるネット・フィルターの収束の議論が必要で, 最近の普通の位相空間の本にはまず書いていない) の重要な性質, 完備性を定式化するときに出てくる概念です. 実数には代数・測度・位相などの多彩な性質があります. そのうち完備性は実数の位相に関する決定的な条件です:小学校以来の直観的な数体系に「ふつうの距離 (ユークリッド距離) 」を入れた時, 自然数と整数は完備ですが, 有理数は非完備です. 有理数の完備化として実数が立ち現れるというのが数の構成の議論の 1 つのハイライトであり, これが数学的に重要です. そしてフーリエ解析とも関わる議論ですし, コーシーによる極限の $\varepsilon$-$\delta$ による定式化とも関わります.

連続とかいう以前に極限が魔界です. 確かアーベルが反例を出すまで級数周りの議論で今は間違っているとわかっている議論が成り立つと思われていたりしました (詳細忘れた:こういうの とかいろいろあります. アーベルは天才なので). コーシー・アーベル・極限周りではほかにもいろいろなエピソード・登場人物がたくさんあります. こういうの のとか: Analysis by Its History.

何はともあれ極限周りの話をすると, 結局極限周りのいろいろな議論は実数の性質に帰着します. 例えば連続関数の一様収束先が連続というのを示すのに, まず収束先の存在証明のために各点での収束を議論しますが, そこで実数の完備性を使います. 関数の議論をするのにも実数論がないと話になりません. そもそも関数の議論がなぜ必要かというところでフーリエが出てきます. これも有名な話で, フーリエは「任意の関数がフーリエ展開できる」と主張しました. ここで問題になったのは「そもそも関数とは何ぞ? 」というところからです. 関数の定義自体がずるずるだったので議論することさえままならない状況です. 実数の完備性などを議論しなければならなくなったのも関数・関数列の極限処理が 1 つの強い理由です. (この辺の話, 現代数学観光ツアーにも書いたので, 興味があれば読んでみてください).

経緯にあまり詳しくないので大幅にはしょると, 何やかんやで 19 世紀の数学では三角級数論の研究が盛んになったようです. (解析?) 数論関係の話もいろいろあったとか. 実際, 集合論で有名なカントールは (解析?) 数論がらみの三角関数論の収束の挙動の研究から集合論に入ったと聞いています. 集合論の研究の中で「$\mathbb{R}$ と $\mathbb{R}^2$ の間の全単射の発見」という出来事に関してカントールは「これらの間の区別がないことがわかった」と言ったのに対し, デデキントが何か印象的かつ数学的に正しいコメントをしたみたいな話があります. 参考. この辺, デデキントの詳しいコメントを忘れた上にすぐ思い出せませんが, 位相幾何での $\mathbb{R}^n$ と $\mathbb{R}^m$ が同相と $n=m$ は同値とか, 線型空間として同型なのと $n=m$ が同値みたいな話で, 全単射があるだけで「同じ」とみなすのはよくない, とかいうタイプの指摘だったはずです. この辺, 初めの方に書いた「実数は代数・測度・位相に関する多彩な性質がある」という部分の捕捉でもあります. このくらいの知識の射程距離がないと多分実数論の何が面白いのか, 数学関係者がどこに興味を持っているのか見たいなことはおそらく全く分からないはずです. というわけでいろいろ書いてみました.

フーリエに戻ると, フーリエ級数の議論は高木貞二「解析概論」になるような連続関数に関わる議論と, ゴリゴリの関数解析方面のルベーグ積分が絡む議論が初等的な範囲ではよく出てくるように思います. 物理向けだとヒルベルト空間論でルベーグで, だと思うので後者の話をしましょう (前者をよく知らない). そろそろ話が元からだいぶずれてきているような気もするので, せっかくなので適当に. こちらの話も結局完備性の話であり, 関数列の極限であり, 最初の方に書いたアーベルの級数まわりの話 (これも関数列の極限) と似た趣があります. なので連続にフォーカスが行く時点で何か数学的な軸がずれています.

まず多少は数学的に扱いやすい方でのフーリエ変換の定義は, $L^2$ での収束でしょう. 連続からはかけ離れた関数なのでいわゆるふつうの関数の連続性をいくら頑張って勉強してもあまりご利益ありません. そのうえでフーリエ変換の厳密な定義をするにはいくつかのステップがあります. 一番最初に出てくる問題は, フーリエ変換を定義することになっている積分が, $L^2$ の関数に対して $L^2$ の位相でそのまま素直に収束しないことです. $L^1$ なら自明に収束するので, まず $L^1$ で考えます. 次に $L^1 \cap L^2$ の関数に対して収束するという自明な議論にもっていきます. 有理数は実数の中で稠密というのと同じく, $L^1 \cap L^2$ は $L^2$ の中で稠密です. さらに急減少関数はこの共通部分に入っていて $L^2$ のなかで $L^2$ の位相で稠密です. 急減少関数は直観的にフーリエ変換の議論でやるありとあらゆる乱暴な計算が成り立つ空間なのでまず急減少関数の空間でいろいろ議論します. 最後に稠密性で持ち上げます. これは実数論および実数論を基礎にした微分積分学の基本的な議論で出てくる完備性周りの議論, 暗黙の裡に出てくる (連続関数の空間に対する) 関数空間論の議論がキーになっています. あの辺をゴリゴリ数学科でやるのは実際にこういうところで議論のアーキタイプだからです.

あとここでいう関数空間は全て線型空間なので, 線型代数, 特に抽象線型空間論, そしてユニタリ空間論を知っていないと多分何もかもわかりません. その辺の理解があいまいだとその隙を正確無比に突いてきて, 我々の理解を破壊してきます. この辺の話, $L^2$ が実数と同じく完備であることが極めて強く効いてきます. そんなこんなで実数論・コーシー列 (完備性) ・フーリエみたいなのはほぼセットです. 実数の完備性は「実数の連続性」とも呼ぶので, その意味では連続ですが, 関数の連続性と混ぜると何もわからなくなるでしょう. 実数とフーリエ解析は, 線型代数・微分積分・集合・位相・収束処理の技術あたりがキーポイントで, 収束処理の技術以外は知識 (講義されて無理やり知っていることにされるという意味) ベースでは大体数学科の学部一年程度です. ただすべて知っていて収束制御技術を身に着けるとなると相応の苦労があります.

動機という視点からまとめると, 実数・完備性・収束の議論は級数論などで間違いまくった結果, 反省としてきちんと議論しないと駄目なことが分かった, という強烈な動機がないと多分何も気分が取れません. 非数学で収束の議論を頑張ることはないはずで, 他学科で触れられない「聖域」だろうとは思います. この辺, 極微の世界やら何やらで量子力学なり相対論が必要になって物理が反省を迫られた, みたいなところがないとご利益が分からない, みたいな気分で私は見ています. (偶然でしょうが時代的にもいろいろ重なっています).

フーリエの厳密化の動機については, 「そもそも任意の関数とは?」やら「関数列の収束とは (ゴリゴリの位相空間論)」やら「(可算) 無限個を除いた点 (ほとんどいたるところ) で関数列がある関数に収束するのだが」みたいなところに興味関心が持てていないと何もわからないし見えないはずです.

応用を考えるなら超関数のフーリエ変換やら何やらも出てくるのでしょうが, これはごく単純な三角級数が超関数にまでぶっ飛んでいく数学社会の厳しさを意識しないと動機がつかめない感じはあります. 例は簡単で $\sum e^{ikx}$ があります. 単純な三角関数の和がディラックの $\delta$ に収束します. 関数解析やら関数の収束やらその位相やらになぜ面倒な話がいろいろ出てくるかというと, 究極的に筋がいい複素解析関数である $e^{ikx}$ の単純和 (級数・関数列) が超関数という関数ならざる何かにぶっとんでいくからです. 物理や工学でよく出てくるおなじみの関数が地獄なので, 初手地獄です. こういうの, 物理などでは日常的な存在なので誰でも知っている例ですが, この時点ですでに数学的な地獄が顕現していることを明確に意識して数学のモチベーション向上に使っている非数学の人をあまり見かけない気分があります. 私はこの辺, 学部 1 年でいろいろ調べさせられて煮え湯を飲み強烈な動機があります. あと, フーリエでも出てくる解析関数列の極限が (超関数という) 特異な存在になるというのは, 相転移などでも大事な話です. あれも (イジングの) 有限系での解析的な分配関数が極限で特異性を持ち, それが相転移として現れるという話で, 私にとっては同じ構造で, その辺を調べたくなる強烈な動機です.

だいぶ長くなってまとまりもなくなってきたのでこの辺で打ち止めにしますが, 私にとっての実数やらフーリエやらの動機はこの辺です. 現代数学観光ツアーに書いた部分もあります.

いやはや, 勉強になります. あやふやな理解で適当なことを書いてしまって申し訳ないです. そういった, 数学の世界の中での定義や概念の導入された経緯みたいなものが, 少しでも教科書に書いてもらえるとより読み進めやすくなると, やっぱり数学外の人間は思います.

紹介された「現代数学観光ツアー」というのも機会があれば読んでみますね. ありがとうございます

物理やら何やらでもそれ自身の話についたは概念の導入経緯みたいなやつ「自然がそうあるから仕方ない」みたいな感じで経緯の説明ないのはふつうな気分があり, 何で数学だけことさら気になるのか感はあります. あと探せば数学史なり何なりあるので非専門の話に労力割きたくない事案なのはわかりますが.

数学の場合は, 自然科学でいうところの「自然がそうであるから」に対応する目的がないので途方にくれるんですね. 数学の定義や概念はすべて (自然ではなくて) 人間が導入するものなので, 最初にそれを導入した人間にとってはなんらかの意図や目的があったはずです. コーシーのそれのように.

高木貞治の近世数学史談だか何かに「数学は帰納の学問である」という話があり, 群やら何やらの抽象物も大抵何らかの具体例をゴリゴリにすり下ろして抽象化していたり, 物理から生まれていたり何なりするので, 物理をやっていればかなりの程度カバーできるのでは, というのが私の学習履歴でもあります.

それはわかります. ニュートンが運動を考えるために微分を生み出したという逸話を知っているから, 微分を勉強する意味もわかりますが, そうでない人 (たとえば物理に興味のない高校生) にとっては苦行でしかないだろうというのもわかってしまいます. 必要がないといえばそれまでですが.