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吃りは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障碍を置いた。最初の音がうまく出ない。その最初の音が、私の内界と外界との間の扉の鍵のようなものであるのに、鍵がうまくあいたためしがない。-金閣寺-
— 三島由紀夫bot(試運転中) (@MISHIMA_NOVEL) 2014, 10月 11
帳わかる.
わからない方が幸せなのかもしれないが.
結局よくわからないのだが,
三島も吃音あったのだろうか.
そうなら俄然親近感が湧く.
それはそれとして文学にみる障害者像 三島由紀夫著 『金閣寺』というページ見つけた.
ちょっと引用する.
「障害を持つ人々は、どこまで自らの障害を相対化できるのか。」私は、障害を持つ人々が突き付けられる課題の最たるものは、結局、このことなのではないかと考えてきた。障害を持つ人々にとって、障害を持つという事実は、自分を取り巻く環境のようなものである。そうであるならば、この環境をどのように解釈するかということが、障害を持つ人々には重大な問題となるのである。
柏木は、内翻足(両脚の奇形)の障害を持ち、その障害を半ば確信犯的に利用しながら、周囲に向き合おうとする。女性と付き合うにも、柏木は、「彼女は俺の内翻足を愛しているのだ」と開き直り、隣の溝口にも、「吃れ。彼女だって吃りに惚れるかもしれないんだ」とけしかけるのである。私は、このような柏木のシニカルな言動には、一時期、相当に影響を受けたものである。「自分の障害が制約ではなく道具にもなるかもしれない」と考えることは、私には確かに納得のいくものであったからである。障害を持つ多くの人々にとって、自己の障害は確かに制約を与えるものでしかない。しかし、周囲の人々に伍して渡り合おうと考えれば考えるほど、「災い転じて福と成す」方法を見付けようと必死になる。「使えるものは何でも使う」ということを考えれば、自分の障害ですら使えるはずだと考えるのは、自然なことであった。私にとっては、柏木は、半ば分身のような存在に映っていたのである。
ただし、幾歳月が経ち、二度、三度読み返した後では、私は、柏木が自らの障害に呪縛された人物であることに気付いていった。「彼女は俺の内翻足を愛しているのだ」と大見得を切った柏木は、障害者の立場でしか説明することができなかった。「あの人の目はきれいな目や思うけど…」。このように周囲の女性が感じていることには、柏木は気付いていなかった。柏木は、自己の障害に自縄自縛になっていたのである。柏木は、自己の障害を「道具」として見るところまでは相対化してはいるが、それが「唯一の道具」であると思い込んでしまった。私は、柏木の中に、障害を持つ人々が障害者の立場でしか自らを説明することができないことの淋しさを感じ始めていたのである。
吃音, 何か道具になるだろうか.
自縄自縛になってばかりという感じはものすごいある.
食われてばかりなのでもう少し仲良くしてほしいと思う毎日だ.
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